イスラム教と経済①

「宗教はコワい!」   

パリで11月13日発生した同時多発テロに、多くの人がそう思ったことでしょう。なぜ、こんなことが起きるのでしょうか。宗教に関連する紛争や事件が世界で多発しているのは、何故なのでしょうか。

パリ同時多発テロイスラム過激派組織「イスラム国(Islamic State、IS)」が行ったものとされます。イスラム国は犯行声明で「8人の兄弟たちが十字軍フランスに聖なる攻撃」を実行したと述べました。   

このような事件が起きると、宗教に縁遠い多くの日本人は、宗教の対立が紛争を引き起こしている、と捉えます。

しかし、こうした捉え方はそもそも、間違っています。イスラム国のやっていることは、宗教の名を借りた暴力行為に過ぎず、本質的に宗教とは関係がありません。

 

・宗教のせいにするな!   

イスラム国が本拠にしているシリアやイラク北部はもともと、民族や宗派が複雑な場所で、油田などの利権を巡る争いが絶えませんでした。そこに、アメリカやフランスがシリア空爆の介入したことで、イスラム国の怒りを買い、今回、パリが報復攻撃されました。

宗教理念の対立が抗争を生んでいるわけではありません。現在の対立は本質的に利権争い、覇権争いに過ぎません。

多くの日本人にとって、宗教は縁遠く、どうしても、「わからないもの」になってしまいます。今回のパリの同時多発テロのような国際紛争の複雑な原因を、宗教という「ブラックボックス」に放り入れて、無理やり納得させている人が多いのではないでしょうか。   

日本人にとって、この「ブラックボックス」はかなり、便利です。昨今のウクライナ紛争、中東紛争、「アラブの春」後の中東地域の内戦など、国際紛争を何でもかんでも、宗教という「ブラックボックス」に入れてしまえば、「解決」したことになってしまいます。   

ブラックボックス」に入れて、「宗教ってコワい」とフタをしてしまえば、それで済んでしまいます。

 

・結局は俗世の不平・不満   

日本人は宗教の「ブラックボックス」を正しい認識で埋めていかねばなりません。いつまでも、無知のままでは、偏見や誤解が増長されてしまうだけです。   

イスラム国は、ならず者の集団であり、彼らにとって、宗教の信念など、二の次です。イラクやシリアで、独裁政権が恐怖政治を展開しながらも、地域の潜在的な問題を抑え込み、うまくコントロールしていました。イラク戦争や「アラブの春」後、独裁政権の「重し」がひと度、外れると、溜まっていた人々の不平不満のエネルギーが噴出し、爆発しました。

イスラム国はそうした不平・不満の塊のようなものです。どこからどこまでが宗教の問題なのか、或いは世俗の問題なのか。両者をゴチャ混ぜにすると、実体を見失います。

しかし、宗教と世俗の境界がどこにあるかというのは極めて感覚的な問題です。計測可能な基準があるわけではありません。従って、宗教に関する様々な事象を知ることで、感覚を養い続けなければなりません。   

その最も効率的な訓練方法が、宗教の歴史を知ることです。過去数千年にわたり、様々な宗教がどのような状況で、どういうことをしてきたか、その蓄積を一覧することができるのが宗教史です。

宗教が唱える理想論や観念論ではなく、宗教が現実に何をしてきたかを知ることで、宗教と社会全体の役割を捉えることができます。「宗教とは何か?」ではなく、「宗教は何をしてきたか?」と問うことの視点が現在の日本人にとって重要です。

 

・宗教よりもカネ   

イスラム教とキリスト教は長く対立をしてきた歴史があります。11世紀より始まった十字軍遠征で、両者の対立は本格化します。パリをテロ襲撃したイスラム国も犯行声明で、「十字軍フランスに報復した」と述べています。

中世の時代からの宗教戦争が今でも続いています。しかし、この宗教戦争というものは、よく中身を見てみると、その対立が宗教に起因するものではないことに気付きます。   

十字軍戦争は、地中海地域が経済成長する中で、領土拡張と商業利権を狙ったヨーロッパとイスラムの諸侯たちによって行われました。   

両者の対立は世俗利権の対立でしたが、その欲望に満ちた確執の汚らわしさを隠蔽するために「神の栄光」という名分を得て、「聖戦」となります。   

1202年に、第4回十字軍の遠征が始まります。キリスト教の十字軍の目的はイスラム勢力に占領された聖地イェルサレムの奪還でした。しかし、第4回十字軍は、イェルサレムを攻めず、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を攻め落としました。 コンスタンティノープルは同じキリスト教勢力圏で、当時、100万の人口を誇り、東西貿易の要衝として、繁栄していました。カネに目が眩んだ十字軍は私利私欲のために、キリスト教同胞を攻撃し、コンスタンティノープルを占領したのです。

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ウジェーヌ・ドラクロワコンスタンティノープルの陥落』(1840年)

 

・宗教という幻想を捨てよ!   

実は、歴史において、「聖戦」という名に価する純粋な宗教戦争はほとんどありません。ごく限られた範囲で、限られた人物や集団が純粋な宗教理念を貫き、「聖戦」を行うことがないわけではありませんが、それは部分的なものに過ぎません。   

欧米とイスラムの紛争を、その外形的な部分だけを取り出して、キリスト教イスラム教の宗教対立と安易に捉えるのは大きな誤りです。外形上、そのように見える、というだけのことであり、実態は領土や利権の争いに過ぎません。   

宗教の対立という、一見分かりやすいロジックが立てられ、それに直接関係した歴史的経験のない、我々日本人は、妙に納得した気分になりやすいのです。   

古今東西、人間は、自分に直接、利害の絡む目先の事柄に発奮して、殴り合いや殺し合いをするものです。これが歴史に共通する人間の行動原理というものでしょう。多数の人間を突き動かすものは、宗教などという理念的な抽象物でないことだけは確かです。歴史的に、宗教の対立というものは、目先の利害争いの醜悪をカモフラージュするための名分として使われるに過ぎません。

 

・宗教って、そういうことなのか   

宗教への無理解の「ブラックボックス」は、宗教史をザッと辿るだけで、明るく照らされます。宗教は恐いものでも、有り難いものでも、特殊なものでもありません。世俗の人間が世俗の関心に応じて、恐いものにしたり、有り難いものにしたりします。   

そして、その世俗の関心とは富や財を巡る問題、つまり経済です。宗教は経済という世俗の一部であり、経済の視点によって、その本当の姿が暴かれます。   

経済格差が拡がり、貧困層の不満が高まっている時、宗教は「神の前の平等」を唱えます。天下が統一され、社会の平安が望まれる時、宗教は金銭欲を抑えることの美徳を唱えます。経済利害の対立する外敵に対し、結束が必要な時、宗教は「異教徒への聖なる戦い」を偽装します。   

どのような宗教でも、経済を根幹として、動きます。従って、無神論の日本人に、宗教は理解できないなどということはありません。   

合理的な経済活動に邁進するビジネスマンや企業戦士は自分たちにとって、宗教など関係のないものだと思い込んでしまっています。しかし、実際には、宗教と経済が一体となり、様々に影響し合いながら、社会が形成されています。そのため、経済と宗教を統合して考え、我々の生きる社会の全貌やその本質を突き止めようとすることが重要です。

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