軍事パレードに見る中国人の中国性

・消えない反日感情

9月3日、反ファシズム・抗日戦争勝利70年を迎え、 中国は大規模な軍事パレードと閲兵式を開催しました。 中国の軍事的能力を誇示し、 特に日本を牽制することが目的のようです。  

人民日報は、日本が「再び軍国主義の道を歩む兆しがあり、 戦後の国際秩序をひっくり返し、 敗戦国の地位を変えようとたくらんでいる」と批判し、「 中国は日本に(軍事的)能力を示し、 戦後秩序に対する日本の挑戦を絶対に許さない」 とコメントを出しています。

不満のエネルギーはガス抜きするか、外部に向けるかをしなければ、政府に向かってきます。中国政府が日本をターゲットにして、先の戦争の責任などをしつこく追及するのは中国内部に溜まる不満エネルギーを外に向けるためと言われます。

中国では、戦後一貫して反日教育を行っています。1937年、日中戦争において、日本軍は中国を侵略し、南京で罪のない一般市民を「30万人虐殺をした」と教えられ、日本軍の残虐性や非人間性がことさら強調されます。

南京大虐殺について、様々な論争があります。それがあったのかどうかの決定的な証拠もなく、日本政府は南京大虐殺があったことを認めていません。2000年に、河野洋平外相が政府見解として「南京入城後に、一般市民や非戦闘員を含む犠牲者が出たということについては否定できない事実」と述べていますが、この声明は、大虐殺があったことを認めるものではありません。

南京には、南京大虐殺紀念館(中国正式名:侵華日軍大屠殺南京遇難同胞紀念館)というものがあり、日本人がどの様に南京の人々を「屠殺」し、婦女を暴行したかを図像で展示しています。20年前まで、ショッキングなヴィジュアルで残虐性を印象づける展示内容が多かったのですが、リニューアルされて、展示内容は穏健になったものの、その方向性は変わりません。中国各地の多くの学校が修学旅行などで、見学に訪れています。

このような反日教育を真に受けとめて、反日感情を持つ中国人も多くいますが、実際には、冷めた目で見ている中国人も少なくありません。特に、大学で高等教育を受けた人々や学生は、中国政府の反日教育を時代錯誤なもので「恥」と考えているようです。13億人の中国人が皆、反日教育マインド・コントロールに嵌められているわけではないのです。

では、冷静に反日教育を捉えている中国人が、日本に好感を持っているかというと、それも違っていて、やはり、日本に対して反感を抱いています。日本軍が中国人を虐殺したかどうかということとは別に、日本が日中戦争で中国を侵略し、中国を一時期、屈服させて、支配したという事実があるからです。

現在に至ってもなお、70年前の昔の、祖々父の世代の事を根に持つことなどあるのか、と日本人は思うかも知れません。しかし、中国人にとって、それは遠い過去の事ではなく、忘れてはならない屈辱として、今も彼らの心に根付いています。だからこそ、現在でも、繰り返し、先の戦争の責任の追及、謝罪の要求を行い、中国人が共通に持つ屈辱感を中国政府が国威発揚のもと統合し、日本にぶつけてくるのです。

また、中国のこうした過去に固執する姿勢というのは中国人が持つ歴史的な意識に根差しているようにも思えます。次に中国人の民族勃興の黎明期に起きた歴史をひも解いていきましょう。

 

・復讐と執念のDNA

「臥薪嘗胆」という中国の言葉は一昔前まで、よく日本人も使っていた言葉ですが、最近ではほとんど聞かなくなりました。「臥薪」とは薪の上で寝るということで、痛くて安眠できません。「嘗胆」とは鹿の胆を嘗めるということで、その胆汁は震え上がるほど苦いと言われます。悔しい思いをした者がその悔しさを忘れないために薪の上で寝て、苦い胆を嘗めて、辛苦を思い起こさせようとします。

人間は時の経過とともに、過去を忘れるものです。人から受けた屈辱を忘れてはならない、水に流してはならないという戒めの精神がこの「臥薪嘗胆」に現れています。

紀元前の6世紀から5世紀の春秋時代に、呉と越が激しく争いました。呉は現在の上海~蘇州~南京にかけて勢力を拡げていた国です。越はその南方の現在の杭州一帯の勢力です。呉が負けた時、呉王はその敗北の屈辱を忘れないために「臥薪」し、遂に越に報復することが叶いました。また、敗北した越王も復讐を誓い「嘗胆」し、10年かけて、越を再建し、遂には呉を滅ぼすことに成功しました。

中国では「臥薪嘗胆」の精神が一種の美学として、受け継がれ、雪辱を果たすものが尊敬をされる社会風土があります。キリスト教が「右の頬を殴られれば、左の頬を差し出せ」と説いた精神観と異なります。欧米人は中国人と比べ、復讐心が弱いというわけでは決してありませんが、復讐心を全面に出すことを恥とする文化があり、復讐心を燃やす人間を社会が許容しないのです。

日本人には忠臣蔵のような復讐を美とする文化がありますし、その封建的な精神は中国人と同質的な部分がありました。しかし、近代化の中で、合理主義の精神が尊ばれ、このような復讐心を美化するような文化観を捨て去ってきた経緯があります。明治維新を経験した日本人と違い、中国は19世紀以降、列強により支配・抑圧され、充分な近代合理主義の洗礼を受けないまま、今日に到っていると言えます。

その結果、我々日本人がどうにも理解できないような、過去の戦争を蒸し返し、繰り返し謝罪を求めてくる「臥薪嘗胆」がなされているのです。中国人にとって、先の戦争の責任追及は「臥薪嘗胆」の「美談」を再現することに他なりません。

 

・屍に鞭打つ

この「臥薪嘗胆」には、日本人が一般に知らない事実があります。呉の国の宰相に伍子胥という人物がいました。伍子胥は元々、楚の国の出身で、彼の一族は楚の重臣でした。讒言によって、伍子胥の父と兄が楚王に殺されてしまい、伍子胥は命からがら、隣国の呉に逃げ込みました。親兄弟を殺された復讐を伍子胥は誓い、呉王に仕えることとなります。有能な伍子胥は呉を強国化し、遂に呉軍を率いて、楚を破りました。

楚の都に伍子胥が入ったとき、父と兄を殺した楚王は死んでいました。そこで、伍子胥は楚王の墓からミイラ化した死体を引きずり出し、その死体の目をえぐり、300回も鞭を打ち、恨みを晴らしました。「屍に鞭打つ」の有名な言葉は伍子胥の故事から生まれたもので、たとえ相手が死んでも許さない、徹底してやる、という精神を表しています。

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伍子胥

 

伍子胥はこれ以降、畏怖されて、出世し、呉の宰相にまで昇りつめます。伍子胥を取り立てた呉王はその後、南方の越との戦いで敗北し、このときに受けた矢傷が原因で死んでしまいます。子の夫差が若くして後を継ぎました。伍子胥は若王が父王の恨みを忘れることのないよう、宮中の衛兵に「夫差、先王の恨みを忘れたか!」と四六時中、叫ばせます。伍子胥の指示で、食べるときも寝るときも、厠にいくときも常に衛兵が付いて回り、「夫差、先王の恨みを忘れたか!」と叫ばせました。

前述のように、この若王は薪の上で寝て、衛兵の叫びにノイローゼになりそうになりながらも、よく試練に耐え、呉を復興させて、遂に越を破りました。越王の勾践は捕らえられ、伍子胥は勾践を殺すように夫差に進言します。しかし、夫差は勾践を奴隷にし、殺しませんでした。越王を殺すべきと主張する老宰相伍子胥は若王夫差と対立するようになり、夫差から自殺を命じられ、果てました。

伍子胥は死ぬときに、「自分の死体から目をえぐり出し、それを城門に置け」と側近に言い残しました。「越王が呉に復讐しにやって来るとき、呉の城門をくぐる姿をそこに置かれた目で見てやろう」というのです。伍子胥の予言通り、勾践は呉から逃げ、越に帰り、その後、「嘗胆」しながら、越を復興させて、呉を降しました。伍子胥は勾践の気持ちをよくわかっていました。「屍に鞭打つ」ということを行った自分は、復讐の刃を磨いて生きてきたのであり、勾践もまた、必ず、呉に復讐をすると考えたのです。

越を破り、越王を奴隷にすることで恨みを晴らした、と考えた若王と、相手が死ぬまで、或いは死んでも復讐をするという老宰相との考え方の相違があります。「臥薪嘗胆」はおろか、「屍に鞭打つ」まで徹底的にやらねばならないという伍子胥の不屈の精神、他方、相手を屈服させたと勘違いした若王夫差。破滅したのは若王の方でした。

伍子胥の精神は日本人にとっても、かなり納得できるものであるはずで、これを野蛮として、批判することはできないでしょう。

今日でも伍子胥は崇められ、呉の古都蘇州の街には、伍子胥の廟や像、伍子胥の造った城壁や水路が多く残っています。我々日本人が伍子胥の史跡と出会う時、伍子胥の眼差しが我々に向かって来るのを感じます。伍子胥の精神は現在にあって、日中戦争の責任追及にその姿を変え、日本人に復讐の刃が向けられ、決してその刃先が降ろされることはありません。賠償やお金で決着の着くことではなく、まして話し合いなどではどうにもならないでしょう。

日本人にとって、厄介な伍子胥の故事ですが、我々の隣人がどういう精神観で歴史を見ているかということをよく示しています。

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