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ウクライナ問題

ロシア帝国の過酷なウクライナ支配

昨年、2014年7月、 アムステルダム発クアラルンプール行きのマレーシア機が、 ドネツク市近郊で墜落し、一年が経過しました。親ロシア派武装勢力が地対空ミサイルでマレーシア機を撃墜した、 とされている事件ですが、解決しないまま、 放置されているのは異常なことです。

ウクライナはもともと、土地が肥沃で、黒土地帯という石灰の豊富な土壌が拡がり、小麦の生産に適しています。15世紀後半に、コサックという武装集団が開墾をしながら、勢力圏を形成していきました。

ウクライナ・コサックは西のポーランド、東のロシア、南のオスマン・トルコの間に挟まれ、巧みな駆け引きを行い、クリミア半島に到るウクライナ全域に勢力を拡げていきます。

 しかし、17世紀から18世紀前半にかけて、ロシア帝国が近代改革を行い、強大化すると、大砲の威力でウクライナ・コサックの騎馬隊を蹴散らし、ウクライナを併合します。ウクライナロシア帝国の穀倉地帯となり、ロシア人によって、搾取されます。ロシア帝国は、ウクライナにおけるロシア化政策を行い、ウクライナ語を禁止しました。

18世紀後半、エカチェリーナ女帝がクリミア半島を征服し、ウクライナ支配を固めます。ロシア帝国により、ウクライナ人に重税が課せられ、まさに生かさず殺さずの奴隷的な扱いを受けます。

19世紀、ロシア帝国クリミア半島セバストポリに海軍基地を築き、バルカン半島オスマン・トルコへ南下進出をします。同地域への進出をかねてから、狙っていたイギリスやフランスの西欧諸国の反発を招き、1853年、クリミア戦争となります。ロシアはイギリス・フランスに敗退し、クリミア半島の海軍基地機能を破壊されます。当時のロシア皇帝ニコライ1世はクリミアの敗戦に怒り狂い、憤死しました。

2014年、プーチン・ロシア大統領は、ウクライナ動乱後、早々にクリミアで住民投票を実施させました。クリミア半島ウクライナから分離し、ロシア領に編入し、歴史的因縁の地セバストポリで、クリミア帰還の大祝典を行いました。

ロシアにとって、今も昔も、クリミア半島は死活的に重要な戦略拠点なのです。ロシアは現在、黒海全域の制海権を握り、西方のバルカン方面、南方のトルコ・グルジアアルメニア方面に睨みを効かせています。

1917年、ロシア革命で、ロシア帝国が崩壊し、レーニンの率いるソヴィエト政権が誕生すると、ウクライナは独立をしました。しかし、ソヴィエト政権はウクライナの独立を認めず、軍事侵攻し、1918年、ウクライナ・ソヴィエト戦争が勃発します。二年に及ぶ激戦の末、ソヴィエト軍ウクライナを制圧しました。1922年、ウクライナは正式にソヴィエト連邦に編入されます。

 

 ・悲劇のウクライナ人、第2次世界大戦、チェルノブイリ

当初、ソヴィエト政権はウクライナ語の使用を容認し、ウクライナ人を政府要人に積極採用し、ウクライナを懐柔しようとしました。しかし、露骨な懐柔政策は効を奏さず、かえって、ウクライナの反発を招きます。

レーニンの死後、スターリンが独裁を強めていく中、ウクライナ要人を粛清し、支配を強化していきます。ソヴィエト政権は1933年、強制的な農業集団化政策により、ウクライナ農民の土地を没収し、強制労働に従事させます。推定で400万から1000万人のウクライナ人が餓死した、とされています。ウクライナ人にとって、スターリン時代が最も悲惨な時代とされ、ウクライナ人のロシアへの憎悪が刻み込まれたことでしょう。

第2次世界大戦がはじまると、ドイツが侵攻し、ウクライナ独ソ戦の舞台となり、国土が焦土と化します。ウクライナ人の死者は、兵士や民間人合わせて、800万人から1400万人と推定され、大戦中の最大の犠牲者を出した民族とされます。ウクライナ人の5人に1人が死んだ計算となります。ドイツが約500万人の犠牲者、日本が約300万人の犠牲者、ということと、比較しても、ウクライナの被害がどれほど甚大であったか、わかります。

一般的な統計では、ウクライナ人の犠牲者は「ソ連の犠牲者」として、表記されるため、気付きにくいのですが、「ソ連の犠牲者」のほとんどがウクライナ人であるのです。つまり、このことは、ソ連軍が危険な前線にウクライナ兵を意図的に投入し、ドイツ侵攻の際、ウクライナの民間人が危険に晒されても、放置し、守らなかったということを意味しています。世界史の中で、これ程の多数の犠牲者を一度に出した戦禍を経験した民族は、ウクライナ人だけです。

1953年、スターリンが死ぬと、再び、ウクライナ懐柔政策がはじまります。ソ連によって、懐柔されたウクライナ人は法外な給与が支給され、飼い慣らされ、特権化します。ロシア人との混血政策も推進されます。一方、ウクライナ農民はスターリン時代と同じく、搾取され続け、貧困に喘いでいました。

1971年、キエフの北110キロ、ウクライナ北部に位置するチェルノブイリ市近郊で原子力発電所が建設されはじめます。原発ウクライナに置くことを、ソ連は一方的に決定し、周辺のウクライナ人に何の説明もないまま、1978年には原子炉を稼働させます。1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故が発生しました。弱い立場のウクライナ人が原発の負の側面を全て、引き受けさせられたのです。

1990年、ソ連崩壊の前年に、ウクライナは独立しました。

 

 ・出口の見えないウクライナ騒乱

独立後、西部ウクライナ人と東部ロシア系住民との対立が表面化します。東部ロシア系がロシアの支援を背景に、固い団結をしているのに対し、西部ウクライナ人は利害の調整が進まず、バラバラ状態でした。

それでも、何とか数の力で、西部の代表者ユシチェンコを2005年、大統領にします。ユシチェンコはこのときの大統領選で、ダイオキシンの毒を盛られ、顔が変形してしまいます。親ロシア派の仕業と見られています。

ユシチェンコが大統領に就任してからも、ロシアや東部ロシア系の攻勢が強く、与党勢力は分断され、議会は混乱しました。親ロシア派が豊富な資金力で勢力を拡大し、2006年、彼らの代表ヤヌコーヴィチが首相となります。2010年、ヤヌコーヴィチは大統領に就任し、政権は親ロシア派に完全掌握されます。

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ヤヌコーヴィチは西部ウクライナ人を懐柔するため、EU(ヨーロッパ連合)への加盟交渉を推進することなどを公約に掲げます。ロシアと距離を置くように見せかけながら、実際には、ロシアと癒着していました。

2013年、ヤヌコーヴィチが公約を反故にし、EUとの政治・貿易協定の調印を見送ったことに、西部ウクライナ人は激怒し、反政府運動が勃発しました。これが、ウクライナ騒乱のはじまりとなります。民衆の暴動は激しさを増し、政府の治安部隊は、群集に向かって無差別発砲を行います。しかし、怒り狂った民衆に、手が負えなくなったヤヌコーヴィチはロシアに逃亡します。

ウクライナ暫定政権が成立しますが、ウクライナ東部のドネツク州を中心に、親ロシア派のロシア系住民は反発し、ロシアの支援を受けながら、分離独立を狙い、武装勢力を結成します。ウクライナは事実上、内戦状態に陥ってしまいました。

2014年7月、アムステルダム発クアラルンプール行きのマレーシア機が、ドネツク市近郊で墜落しました。親ロシア派武装勢力が地対空ミサイルで撃墜した、とされています。一方、親ロシア派の指導者は関与を否定しています。

日本は、周囲を海で囲まれ、他国と遮断されています。ウクライナは地続きで大国ロシアと繋がり、内部にロシアの支配や影響が歴史的に入り込んでいます。昨今のウクライナ騒乱は、その複雑怪奇な歴史の歪みと悲劇を、我々に教えています。

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