18世紀のリフレ派ジョン・ロー②

財政危機の救済に悪用されるリフレ政策、その功罪とは?

 

・リフレ政策の犠牲者

  ジョン・ローが新たに構築した紙幣供給制度により、紙幣は信用を生み、一般に流通しはじめ、通貨供給量は1718年の1800万リーブルから、2年の間で16億リーブル、約89倍に増えます。バンク・ロワイヤル紙幣の信用が増せば増す程、それと連動するミシシッピ会社の利益もかさ上げされ、株価も上がる仕組みでした。1719年初頭、1000リーブルだったミシシッピ会社株は10000リーブルを越えます。

 ところが、同年5月に取り付け騒ぎが起こります。ミシシッピ会社株はバブルであることを見抜いていた投資家は一斉に株を売りはじめ、さらに紙幣を正貨(金貨・銀貨)に変えて、海外に持ち出すようになります。

 金銀の流出で、信用不安が高まり、人々は紙幣を正貨に交換しようとして、バンク・ロワイヤルに殺到し、取り付け騒ぎが起こり、パニックになります。これと連動して、ミシシッピ会社株は暴落しはじめました。この相場崩落の際に逃げ遅れ、大損をしたのが正貨(金貨・銀貨)で株を購入した(図1参照)一般市民でした。ローは財務総監を辞任し、フランス国外へ逃亡しました。

   フランス王室にとって、ローのリフレ政策は意味のあるものでした。たとえ、バブルで一般市民が破産しようとも、王室財政は債務から逃れ、一息つくことができたからです。

   貨幣増刷、金融緩和などのリフレ政策が、政府の財政を救済することを目的として展開される時、それは結果的に、国家が国民の富を収奪する行為となります。

   本来、リフレ政策はマネーサプライを増やし、経済を緩やかなインフレ状態に移行させて、安定成長を図ることを目的とします。中央銀行が政府の赤字国債を買い上げることは通貨供給の手段に過ぎず、それ自体、リフレ政策の目的ではありません。しかし、ローのミシシッピ計画のように、いつの時代でも、リフレ政策は政府によって、財政救済に悪用されるのです。そして、その犠牲となるのは国民です。

 

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ルイ14世の財務総監のジャン・バティスト・コルベール(1619年ー1683年)、ローによってコルベールの重金主義は批判された

 

フランス革命アメリカ独立革命

   イギリスは南海会社計画で、フランスはミシシッピ計画で、それぞれ、当面の財政危機を乗り切ることができ、新大陸やインドなどでの植民地争奪戦を1740年から再開します。両者の戦いは最終的にイギリスが勝利し、1763年、パリ条約が締結されます。

   敗者のフランスは莫大な戦費を回収する目処が立たず、更なる財政危機に襲われ、1789年からはじまるフランス革命で王朝が崩壊します。フランス革命が起こった時、ブルボン王朝の財政赤字は45億リーブルに達していました。国債金利は7%を越え、ジャンク化していました。

 1793年、フランス革命は激しさを増し、左翼急進派が政権を握ります。そして、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑されました。左翼急進派はブルボン王朝とともに、王室の莫大な負債をこの地上から消してしまいました。ジョン・ローの時代から財政再建が先送りされ続けた結果が、まさにこのような悲惨な結末となったのです。

   もちろん、債権者であった貴族などの富裕層は王朝の消滅によって、貸し付け金を回収できず、激しく抵抗しましたが、彼らもまた、左翼急進派によって、断頭台へ送られました。王朝の負債を消すためには、債務者も債権者も同時に消す以外に方法がありませんでした。

   フランスはしばらく大混乱に見舞われますが、間もなく、ナポレオンとともに新しいスタートを切ることができました。

     勝者のイギリスは戦費を回収するべく、新大陸植民地に強引な重税を押し付けます。反発した植民地側は「No taxation without representation(代表なくして課税なし)」のスローガンを掲げ、反乱を起こし、1775年、アメリカ独立革命となります。

   植民地側軍隊はイギリスから見れば、烏合の衆に過ぎませんでしたが、財政に余裕のないイギリスは満足に戦うことができず、アメリカ独立を認めざるを得ませんでした。以後、イギリスはインドの植民地経営によって、財政の補填を図っていきます。

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