18世紀のリフレ派ジョン・ロー①

財政危機の救済に悪用されるリフレ政策、その功罪とは?                  

 

ミシシッピ会社とバンク・ロワイヤル

   17世紀末からはじまるイギリスとフランスの新大陸植民地争奪戦で、財政が急激に悪化したのはフランスも同じでした。

   太陽王ルイ14世は度々、対外侵略戦争をおこないましたが、そのほとんどがうまく行かず、莫大な戦費を浪費しました。このため、王室は何度も債務返済不能(デフォルト)を一方的に宣言し、借金を踏み倒しました。しかし、太陽王に異議を申し立てる者などなく、債権者は泣き寝入りする他にありませんでした。1715年、太陽王は30億リーブル(フランス国家予算の約20年分)もの莫大な負債を残して逝去しました。

 フランス国債は18世紀、既にジャンク化しており、額面価格を大きく下回る価格で投げ売られていました。フランス王室は国債を発行しても、もはや引き受け手がなく、資金の調達は困難を極めていました。

   そこで、フランス王室はミシシッピ株式会社という特許会社と紙幣発行権を持つバンク・ロワイヤル(王立銀行)をテコに、「ミシシッピ計画」を立てます。

   その手法はイギリスの南海会社のデット・エクイティ・スワップと同じでした。(フランスが先)。1719年、特許会社のミシシッピ会社がつくられます。この会社は新大陸(フランス領ルイジアナ)の開発を一手に任され、ミシシッピ川河口の都市ニューオーリンズの開発などを請け負っていました。ミシシッピ会社は、開発が成功していることを誇張して宣伝し、会社の信用を高めます。

     そして、このミシシッピ会社株とジャンク化していた国債を半ば強制的に交換させます。イギリスの南海会社のような時価取引ではなく、額面取引でした。南海会社と大きく異なるのは銀行の紙幣発行によって、ミシシッピ会社の利益が保証されていた点です。バンク・ロワイヤルは大量の紙幣を印刷し、ミシシッピ会社に供給し、ミシシッピ会社はそれを利益として計上し、株式の配当の支払いに充てました。

 ミシシッピ会社は本業の新大陸の開発には成功していませんでしたが、会社の利益は紙幣供給による「架空の資本」により、保証されていました。

 

・紙幣という信用貨幣

   ミシシッピ計画の絵を書いた人物はジョン・ローという自称エコノミストでした。ローは実際にはヤミ金業者、マネー・ロンダリングのブローカーに過ぎませんでしたが、それなりの経済理論を持ち、ヨーロッパ中の有力者に新銀行設立を提案して回っていました。

 

ジョン・ロー(1720年 アレクシス・サイモン・ベルによる肖像)

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   ローは貨幣の増発で経済が浮揚すると考えたリフレ経済の先駆者でした。当時のフランスの貨幣は金貨・銀貨などの実物貨幣でした。ローはこれに対し、紙幣という信用貨幣の役割を強調しました。

   ローは1716年、ルイ15世の経済ブレーンとなり、紙幣制度(管理通貨制度)の構築に取り組みます。先ず、紙幣の信用を何によって担保するかということが重要な課題でした。ローはバンク・ロワイヤルをミシシッピ会社と結び付け、バンク・ロワイヤルの紙幣価値をミシシッピ開発の利益で担保しようとしました。また、紙幣と、金貨・銀貨の交換を可能にしました。

 

ミシシッピ計画

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   そして、一番大きな信用を生む原因となったのが、バンク・ロワイヤルの紙幣は納税にも使用が可能とされたことでした。つまり、紙幣価値が毀損されれば、国家も被害を被ります。紙幣のリスクを国家が覚悟の上で引き受けたということになります。

     紙幣は信用を生み、一般に流通しはじめ、通貨供給量は1718年の1800万リーブルから、2年の間で16億リーブル、約89倍に増えます。バンク・ロワイヤル紙幣の信用が増せば増す程、それと連動するミシシッピ会社の利益もかさ上げされ、株価も上がる仕組みでした。1719年初頭、1000リーブルだったミシシッピ会社株は10000リーブルを越えます。

   ローはミシシッピ会社とバンク・ロワイヤルの総裁を兼任し、一連のオペレーションを取り仕切っていました。ミシシッピ会社は国債の回収に成功し、王室は膨大な債務から免れました。ローは功績が評価され、1720年1月に、フランスの財務総監に任命されます。

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